テレサ・ベルガンサ Teresa Berganza
(メゾソプラノ)
スペインのマドリード生まれ。マドリード音楽院でローラ・ロドリゲス・デ・アラゴンに師事。1955年にコンサート・デビュー、1957年にエクサンプロヴァンス音楽祭で《コジ・ファン・トゥッテ》のドラベッラ役でオペラ・デビューを果たす。その後ミラノ・スカラ座、英国ロイヤル・オペラ、メトロポリタン歌劇場、パリ・オペラ座など各地の一流歌劇場に招かれ、またグラインドボーン音楽祭、エディンバラ音楽祭など著名な音楽祭に出演を重ねて、トップ・メゾソプラノ歌手として活躍する。 ロッシーニ、モーツァルト、ビゼーなどのオペラを得意とする一方、自国スペインなどの歌曲やオラトリオなどでも高く評価されており、多数のレコード録音が発売されている。1992年のセビリア万博、バルセロナ・オリンピックの開会式にはスペインを代表する歌手として出演した。 1991年にアストゥリアス皇太子賞(芸術部門)を受賞、1994年には女性としては初めて、スペイン王立芸術アカデミーの会員に選出された。

[入場料] 1,500円 ※高校生以下無料
※高校生以下の方、ゆりフレンズ会員の方は、大学窓口をご利用いただくか、 お電話にてお問合せください。 昭和音楽大学生涯学習センター tel:044-953-9849
- チケットぴあ (10月30日まで)
- 昭和音楽大学南校舎販売窓口(平日10時~12時/13時~18時)
- 昭和音楽大学北校舎販売窓口(平日10時~17時)
2011年11月4日、メゾ・ソプラノ歌手テレサ・ベルガンサ女史を講師にお迎えし、昭和音楽大学のテアトロ・ジーリオ・ショウワにて公開レッスンを開催いたしました。公開レッスンのなかでベルガンサさんがお話しになったことから、今後のオペラ界に向けた貴重なメッセージを抜粋してご紹介いたします。
よく声楽の指導者たちは、生徒に対して芸術的表現というものを「させよう」と努めますが、それが達成されないことがあります。なぜかというと「芸術性」というものは生徒の中から生まれ出ずるもの、生来持ち合わせたものが外に顕現していくものであり、そのためには生徒に対してたくさんのたくさんの手助けをしなくてはならないのです。
さらに若い歌い手たちにとって最も重要なことは「レパートリーを選ぶ」ということです。ですが、残念なことに、指導者が生徒に対するレパートリーの与え方を間違えることもあるし、生徒自身が自ら選び間違えるということも起こるのです。また時にはテクニックの不足により、ソプラノ・リリコが誤ってメゾ・ソプラノにされてしまうこともあります。そしてまた生まれながらにしてメゾ・ソプラノである人が、響きが出ない、色が出ないままのメゾ・ソプラノで終わってしまうこともあります。ソプラノ・リリコの歌手でありながら、ドラマティック・ソプラノのレパートリーを歌ってしまうこともあります。それはとても危険なことです。声楽の指導者は非常に大きな「責任」を持っています。その「責任」とは、生徒自身の持っている声の質と特性に沿って教え、生徒たちを守ってやらなければならないという「責任」なのです。
レパートリーに関して、私自身が経験したエピソードがあります。 私はその当時22歳でした。イタリアで若い音楽家のためのコンサートとして数度のリサイタルをし、大成功をしました。そしてまさにそのリサイタルの夜に、スカラ座でロッシーニ作曲のオペラ《オリー伯爵》を歌わないかと、とあるマネジャーからの誘いを受け、出演しました。その公演の後、新聞に批評が出たのですが、その批評は、「スペインの歌手メゾ・ソプラノ、ベルガンサ嬢はその歌唱は実に魅力的で素晴らしく、ひとつの見事なデビューを果たした。だがしかし(!)ここで私は彼女に対して批評を述べることはできない、彼女がヴェルディを歌うまでは・・・」というものでした。
そこで私は考えたのです。なんと馬鹿げたことを言う批評家であろうかと。ヴェルディを聞くまでは何も書くことができないなどという規範を持っているなんて。そして私はその人に手紙を書きました。「親愛なる批評家様、あなたの記事を読みましたが、あなたが私の批評を書く事は決してないでしょう。何故なら私はヴェルディを歌う事はないでしょうから」と。
それから4か月後のこと。私は一通の電報を受け取りました。なんとその電報には、私に、スカラ座でジュリーニ指揮、ヴィスコンティ演出のヴェルディ《ラ・トラヴィアータ(椿姫)》を歌ってほしいと書いてあったのです。その電報を読んだとたんに私は笑いがこみ上げました。そしてこのように返事を書きました。「親愛なる支配人様、貴方は全てにおいてお間違いになっているようです。まず宛先を間違えています。歌手をお間違えです。当たり前のことですが、私はヴィオレッタを歌いませんよ・・・」。
このことで私は一体何を言おうとしているのかというと、私たち歌手は、若い頃において、指揮者や大劇場の支配人・経営者からよくこう言われるのです――「ああ、あなたはなんて偉大な、素晴らしい歌手だろう!
あなたにアイーダを歌って欲しい!」と。でも、私はその当時、いま自分が何をすべきか、どうあるべきかということがよく分かっていました。例えば想像してごらんなさい、もし若い歌手に物事を見極める知性がなかったとしたらどうなるか。
歌手は自分が歌わなければならないレパートリーを歌うべきなのであり、自分に合わないものを歌うべきではないという事を歌手もそれを育てる指導者も知らなければならない。特に歌手は歌うべきではないレパートリーのオファーに対し「No」と言うことができなければ、そのうち声を失ってしまう可能性が高い。「声」を持つということは大変貴重なことなのです。何か大いなる生命から与えられたものなのか、神からの贈り物か、あるいはまた生まれながらに授かったものなのか、かけがえのないものなのです。
だから私たちは、自分の声を慈しむ義務があります。自分がもっている最高の宝物を愛するかのように愛さなくてはならない。それゆえに歌手としてのキャリアを積んでいくことは簡単なことではないのです。奇跡などありません。そのためには勉強し、勉強し、そしてまた勉強し、さらにまた勉強をすることなのです。さらなる完成を目指して日々たゆまず勉強し続けることなのです。歌手というのはその声だけで決まるというものではない。声というものは音楽に奉仕するための手段であり楽器なのです。であるからこそ、その声を尊ばなくてはならないのです。
歌手は音楽を知らなければならない。歌手はまずテキストの中に何が書かれているのかを良く知らなければならない。例えば、ヴォカリーズで歌っただけの場合と、歌詞を付けて「Una voce poco fa ...」
と歌った場合とでは、伝わるものが違いますよね。歌手は、歌詞の内容を知らなければならない、その歌詞を歌わなければならない、そしてその音楽を知らなければならないのですが、それを可能とするためには、その基盤として確固たる技術が不可欠なのです。
私はすべての若い人たちにこうアドヴァイスしたい。どうか焦らないで欲しい。着実に勉強して欲しい。なぜならば、着実な勉強を重ね、声の技術を持ち、音楽性豊かに歌えるようになれば、あなたが望むその高みに到達する日は必ず来るのだから。
現代という時代は歌手たちにとって、その聴衆たちとの関係性が何かにつけて大変影響を与える時代となっています。現在はメディアの時代であり、歌手は簡単に取り扱われる時代でもあります。聴衆は歌手やその演奏というものをテレビやCDなどで、すぐに手に入れることが出来るし、良ければどんどん売れ、良くなければさっさと投げ捨てる時代なのです。ご存知かどうかはわからないが、キャリアを持った多くの歌手たちが、ある時には高額のギャラを手にしたり、音楽雑誌で報道されたり、テレビに出たり、CDを出したりしますね。しかしその一方、若い人たちには多くのギャラが払われることはありません。ですから、若い人たちが前へ出るためには唯一、「質」が大切なのです。その質を高めるための勉強と修行が大切なのです。それを毎日毎日、もっともっと積み重ねていくことなのです。「質」と「勉強」と「修行」が大切なのです。もしそれらがなければメディアはあなたがた若い人たちを食いものにしてしまうでしょう。
さて、ここ何年間か私は日本とはご無沙汰しておりましたが、フリオ・ムニョス氏が、私をこの昭和音楽大学へ招きたいとのお話を持ちかけてくれました。私はムニョス氏に、「フリオ、私は大丈夫よ、日本に行きたいわ」と答えました。「若い日本の歌手たちを聞きに、そして私の中にあるすべてのこと、すべて彼らに授けるために行きますよ」と答えたのです。先ほど私がこの大ホールのステージに出た時に皆様から大きな拍手をいただき、私に大いなる感動を与えてくれました。なぜかというと過去に何度も何度も日本に来て歌っていたことを思い出したからです。私は日本のほとんどすべての地域で歌ったことがあります。その経験があるために、私は日本を愛し、日本の人々を心から敬愛しているのです。どうか私が社交辞令で言っているのだとは思わないでください。日本の人々は素晴らしい聴衆です。静寂の中に聴き、しかし熱狂的な拍手をして下さいます。皆さまにただただ、有り難うとお伝えするばかりです。